県体2daysとは何だったのか
以前、仏恥義理ツアー札幌レポでも少し触れました。
そのライブがもたらした意味だとか、意義だとか、昔は雑誌が焼き直しをしてくれていた。
私が知らないだけで、今もある文化なのかもしれないけど、少なくとも今いる場所では、ボイメンを完全に捉えて語り尽くせるメディアは存在しないように思う。
一番近くて東海ウォーカー編集部とかかな…(体感)
ロキノンだとか、FOOL'S MATEだとか、SHOXXだとか、それぞれの言葉で流行に色と形を示していくというか、ミュージックシーンを語る基礎言語として、それらは存在していたように思う。
(めちゃめちゃ生きてた時代がバレるやつ)
ライターさんのアーティストとの距離感、かっこいい言葉で飾り立てられた、1日に起きた出来事。
それがどんなものであったか、その場にいなかった人間に夢を抱かせるような、甘美な語り。
当然、誇大表現もあるだろう。
それでも、紙面からアーティストを知るには、相応の夢を見せるだけのリリックが必要だったはずなのだ。
果たしてそれがボイメンに似合うかは別として、精一杯気取って、県体について振り返ってみたい。
2017年、武道館ライブを皮切りにスタートした華々しい1年であったが、この年に行ったライブのうち、BOYS AND MEN 10人全員が同じステージに立った数は、実は数える程しか存在しない。
2016年末、日本レコード大賞新人賞授賞式で着た白学ランは、翌年の武道館で披露されて以降、我々が目にすることは無かった。
それが初めて、名古屋の地でようやく披露されることになったのが、2018年の愛知県立体育館2daysなのだ。
そういう意味では、これは武道館を経て、全国47都道府県ツアーを経て、それから少し間は空いたが、ようやく名古屋にこの衣装と、武道館でも用いた演出を、同じように披露することのできた凱旋公演であったのだ。
それだけではない。
トロッコというこれまでなかった代物を使って、果たしてこんなにはしゃいで許されるのかと不安になるほど、自由な姿を披露してくれた。
筆者は、トロッコに寝そべって手を振ったり、仰向けに寝て逆さまに客席を見ようとするアーティストなど、これまで見たことがない。
そもそも、美術スタッフではなくメンバーのDIYなのではと疑うほどの素材剥き出しのトロッコに、新しい驚きを覚えたほどである。
これまでのBOYS AND MENと、これからのBOYS AND MENを示すような形で、1日目は結成当初からの曲を中心に、そして2日目には近作を中心としたセットリストを披露した。
これほどの規模で、コンセプトを明確に打ち出し、それぞれ異なる形で楽曲を披露したのも、おそらく初めてだったのではないだろうか。
そして2日目に行われた、MC内でのナゴヤドームのライブの告知について、これまでの彼らなら、突然ステージに社長が現れたり、背後のモニターを見るよう促されて、彼らもその場で新たな挑戦の内容を知る、というのが常であっただろう。
しかし、県体では違った。
客席にモニターを見るよう促し、彼らはそれを見守った。
それはつまり、サプライズで与えられるような挑戦ではなく、相応の覚悟を持って、我々に示されたものであったはずなのだ。
今、そのナゴヤドームライブを僅か2ヶ月後に控え、12月にベスト・アルバムの発売も発表された彼らだが、現在も続くチケットの手売り販売を見てとる限り、完売、満員御礼への道程は険しいようだ。
ドームへの道を示すまでに、少し時間が掛かり過ぎたこと、また、これまでの軌跡とその歩みを示しても、県体ライブのコンセプトが語られる機会が多くなかったことは、筆者も残念に思う。
当然この記事も想像の域を出るものではないが、少なくとも、ボイメンロードと題された県体2daysのタイトルの示す道こそが、「ROAD TO NAGOYA DOME」であることは明らかなのだ。
彼ら10人の多様性を示す一方で、明確な表現でその存在を位置付ける言葉やメディアを持たない様は、まるで錨を持たない船のようだ。
逆にそれが型にハマらない彼ららしさとも言えるだろう。
帆を上げたまま、留まることを知らない彼らの航海に、ファンはそれぞれの浮標を下ろし始めた。
それはもちろん彼らの進路を妨げるためではない。
彼らの航海を、楔として世に知らしめるための印だ。
新たな航海者を導くための光だ。
ファンもまた、同じく航海者である。
今日も、新たに航路を残すべく、多くのファンがそれぞれの浮標を放つ。
カッコつけすぎて歯が浮いてきたのを隠しようもないが、これだけは言っておきたい。
クッソ恥ずい…
じゃなくて
今日も読んでくださってありがとうございます。
BOYS AND MEN 夜露死苦!!